強力な後ろ盾を得たのでこれからは堂々と胸を張って政事について俳句してもいいかも。
ずっとこれは長い間の葛藤、悩みの種だった。雑誌にもそういう句を作っている先輩の方が自分の句集に入れるのをためらったとあった(この方の影響で去年からまじめにやっている)いいのかな、ダメなのかなと葛藤の繰り返し・・
でも、そんなに悩まなくていいぐらいの強力な後ろ盾(根拠)を得たのです。自分でオリジナルを編み出せばいいだけの話だけど・・・
日本の思想ではないんだけど、だいたいルーツはここで、この国ではぜんぶ、昔から一つにつながっていて、日本に入ってきたとたん、違う風になったらしいです。
溝口有三「中国思想のエッセンスⅠ」2011年刊
4「道」の冒頭より(P.89)
「「道」という語は、元来は道路をさすが、中国では古来、他面ある当為概念を示す語として用いられてきた。「任は重く道は遠い(『論語』泰伯)というときの道は、歩くことを要請された当為の道であり、その当為の道は『論語』では道徳および政治(『論語』ではこの二つは不可分だが)にかかわるありかたとして示される」
論語の時代から現代まで「道」はだいたい同じような意味合いを持っている。その意味合いとは道 = 政治、万物、道徳、宇宙が一緒になった「共同性」を持っていてそれは「文」とも結びつく。しかし日本では茶道や華道、武道という結びつきはあっても「文」とは結び付かなかった。
「道」という言葉はすべてを集約していて便利ですね。
一方で、全く関係のない庭の草花を詠んでいても、どちらも最初から「道」って言葉でつながっている。という、句作の動機の部分を心新たにすればいいわけです。
さいきん、答えなどどこ探してもなかったと書いたばっかりだったけど、読み返していた本で、この問いへの回答は見つけた。
もう誰がなんと言おうが悩まなくていい。
